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CULTURE VIDEO MAGAZINE FOR YOUTH

「自分で仕事を作ることができる」。大手自動車メーカーの安定からカレー屋をスタート。現在までの道のり
MY SHOP STORY #001

Prologue
働くことが“懲役40年”と揶揄される昨今。仕事に誇りを持っている人は
どれほどいるのだろうか? 果たして仕事で個性を発揮できているのだろうか?
どうせ働くなら自分らしくありたいと思うミレニアル世代に提案したい。
お店を構えるのもひとつの選択肢ということを。
しかし、それは決して簡単なことではないというのは重々承知のことだろう。
そこで一番参考になるのは、酸いも甘いも噛み分けた先駆者たちの経験だ。
脱サラして異業種に飛び込み、自分のお店を構えた人の話を聞いてみるとしよう。
 
 
第一弾となる今回は、全国に20店舗以上を展開する新感覚のカレー屋、
“野菜を食べるカレー camp”の代表、佐藤 卓さんにご登場いただいた。
フレッシュな野菜がゴロゴロと入った看板メニュー〈1日分の野菜カレー〉を
筆頭に、欧風やインド風など多彩な種類のカレーがラインナップしている。
佐藤さんは意外とも言える大手自動車メーカーから脱サラし、このカレー屋を
スタートさせたが、現在に至るまでどのようにして成長させていったのだろうか?

 
 

僕は基本的に楽観的なので、大きな苦労や悩みはありませんでした

—前職について教えてください。
大学卒業後、1991年から2005年まで大手自動車メーカーで働いていました。

—どんな部署で活躍されていましたか?
配属になったのは法務室ですが、新人の2年間は現場の大切さと大変さを学ぶためディーラーに出向して車の販売をしていました。法務室では、会社の契約に関する文面を作成したり、契約交渉に立ち会ったり、会社の裁判に関してサポートするような、訴訟のマネージメントをするのが主な業務です。

—専属の弁護士とは違うんですか?
現在は弁護士法が変わって社内で弁護士を雇えますが、当時はそれができませんでした。ですので顧問弁護士を雇い、弁護士をマネージメントするのが仕事です。そして、98年から2002年には、アメリカのロサンゼルスにある子会社に法務部のマネージャーとして出向しました。その後日本に戻り、2005年まで商品企画室という部署でプロジェクトマネージャーを務めました。その部署は、車のコンセプトやターゲットに関する企画から、デザインや内装、装備などのスペックまでを決めて、エンジニアやデザイナーたちとやりとりしながら新車をデビューさせるのが仕事。それは、4番ピッチャーの二刀流みたいな自動車メーカーの花形的存在です。

—法務室や営業、商品企画といろいろなお仕事を経験されていたんですね。
それぞれの仕事で、カッコよく見えたり楽しそうだったりしますけど、日常ではつらいこともありました。そういう意味ではすべての仕事が楽しかったとは言えませんが、僕は基本的に楽観的なので、大きな苦労や悩みはありませんでした。楽しく卒業できたと思います。
 
 

大企業のいち社員が社長にアイデアをメールするなんて、到底考えられない

—特に思い出深いことはありますか?
アメリカに出向している間、会社が大きな危機を迎えました。僕が渡米した98年に経営破綻と言えるほどの赤字で、翌年フランスの自動車会社と提携。敏腕社長が就任して、見事数年間で黒字に回復したんです。その過程で我々若手社員に対し、「意見があるなら言ってくれ。今までの年功序列ではなく、案があるなら俺に話して欲しい」とメッセージを送ってくれました。
その時、僕は30歳で、ちょうど仕事に脂が乗っていたし、自信があった時期なんですよ。そして僕は、もともと車が好きでその会社に入ったのに、車と直接関係がない法律の仕事を担当していました。ずっと自動車メーカーらしい仕事がしたいという気持ちがありましたし、こんな車があったらいいのに、こんなことをやったらいいのにって自分の中に貯めていた車に関するアイデアがありました。だから、それを社長にメールで直訴したんです。その会社は当時、5万人の社員がいて、数百社の関係会社がありました。そんな大企業のいち社員が社長にアイデアをメールするなんて、到底考えられないし、ましてや法務室の人間が法律に関することではなく車の企画やデザインを送るなんて正気じゃない。会社が大きく変わっていて、アメリカでの生活で上下関係がない実力主義を見ていたから舞い上がっていた部分はあります。

—社長はどんな反応でした?
何日経っても、そのメールに対する返信がなく、メールを見ているかどうかも分かりませんでした。だんだん心配になりましたが、僕は楽観的なので、社長は忙しいのに知らない社員から文字だけ書かれたメールが送られてきてもって読まないよねって思いまして。それじゃあ、もっとちゃんとした企画書を準備すれば見てくれるかも! と考え、図を入れた資料を添付したアップデート版を送ったんですよ。

—再度アプローチしたんですね。
それを送って、何日経ってもやっぱり返信はありませんでした。でも内容は悪くないと思っていたのでやり方を変えて、十数回送りました。これでも返信がないならダメなのかな…って思いはじめていたら、日本の商品企画室の方から僕宛に電話がありました。ビックリしつつも、社長がメールに対する反応を示してくれたと思って喜びながら電話に出たら、「たくさんの企画書を社長に送ってくれたそうですね。もう二度と送らないでください」って(笑)。

—え!? 怒られたんですか?
はい、すごく驚きました(笑)。でも、僕はその人にはメールを送っていませんでした。あとから聞いてみると、結局社長は読んでいなかったみたいです。でも、社長をサポートする部署の人がメールを見て、そこから商品企画室を管理しているフランス人の社員に転送されて。その人が「ロスにいる法務室の社員がこんなに企画書をたくさん送ってきてくれているのに、肝心の商品企画室はなにをやっているんだ」って、発破をかけるために僕の企画書を使ったみたいで。そんな使い方はしないで欲しかった(笑)。そう言われた日本の商品企画室はメンツを潰されたので、僕に電話をしてきたってことです。
 
 

恩知らずだと言われながらも自分から門を叩いた

—その後、どうされたんですか?
ずっと楽観的に考えていましたが、さすがにヘコみましたよ。ただ、商品企画室の僕より少し年上の人がその企画書を見て、猛烈に感激した人がいたんです。数日後、その人から電話があって、「法律の仕事をしているのはもったいないから、うちの部署で仲間になってもらいたい」って言われました。でも実は、その会社のような大企業では、法務室と商品企画室は部署が違うというよりも会社自体が違うくらいのイメージで、部署間の異動はありえませんでした。ましてや、まったくの畑違いの事務系間接部門の法務室から、技術系花形部門の商品企画室にいくなんて考えられません。
しかし、法務室の部長に「僕を辞めさせるつもりで手放してくれ」と話して、恩知らずだと言われながらも帰国し、商品企画室に直談判して商品企画室への異動を認めてもらいました。辞令があったわけではなく、自分から門を叩いた訳です。

 
 

新しいアイデアを形にしていくことに強烈な熱意を持っていることが分かった

—着実にキャリアを積んでいますが、どのタイミングで自分のお店を持ちたいと思うようになりましたか?
社長に企画書を送っている段階です。それまで、やるべき仕事をしっかりこなして要求以上のことをアウトプットしていたつもりでしたし、努力も惜しみませんでした。でも、がむしゃらに働くパワーを向ける場所は、与えられた仕事だけじゃないなって思ったし、自分で仕事を作ることができると社長に企画書を送っている時期に気づきました。僕は車に限らずいろいろなジャンルで新しいアイデアを形にしていくことに強烈な熱意を持っていることが分かりました。帰国して商品企画室に入ったけど、アメリカにいる段階からいつか会社から独立してアイデアを形にする職に就くだろうと確信していましたよ。

—では、なぜカレー屋に? そもそも飲食の経験がありましたか?
飲食の仕事はアルバイトすらしたことがありません。僕がロサンゼルスに住んでいた時から、日本食は非常に人気でリスペクトされている存在でした。今となっては世界中で日本食が注目されているとテレビでやっていますが、20年前はそんなことを日本人は知りませんでした。そして、僕らが身近に感じている日本のカルチャーがアメリカには一切伝わっていなかった。
つまり、日本食は評価されていたけど、それは伝統食だけ。寿司、天ぷら、鉄板焼き、と漢字の食べ物は浸透していたのに、日本人に馴染み深いラーメンやトンカツなど、カタカナの食文化をアメリカ人は知らず。日本といえばフジヤマ、ゲイシャ、サムライくらい。

—2000年前後でも、アメリカは日本に対してそんな印象だったんですね。
でも日本食は本当にリスペクトされていて。将来、会社を飛び出して自分のお店を持ちたいと考えていたところだったし、アメリカで勝負したいという気持ちが強くなり、僕らにとっては当たり前にある食文化をアメリカに伝えたいと思いました。そこでラーメンのように日本で一般化しているカタカナの食べ物でアメリカにはまだないものを考えました。
 
 

車のアイデアを出すことを食文化に置き換えて考えました

—それでカレーに至ったと。
その通りです。日本でカレーを食べたことがない大人はいますか? ほとんどの日本人は口にしたことがあるくらいの家庭料理です。でもアメリカでは、カレーはインドやタイの食べ物という認識があったし、ロサンゼルスの人たちはカレーを知っている程度で食べたことがない人がほとんどでした。だから日本のカレーをアメリカで提供したらおもしろいと考えた訳です。

—日本のカレーはインドやタイと違いますからね。
そして、アメリカで日本食のイメージを聞いてみると、二つありました。ひとつは、“ヘルシー”。これはよく言われているので分かります。もうひとつのイメージが“エンターテイメント性”があるということ。僕はまったく気づきませんでしたが、アメリカ人からすると凝って美しく盛り付けていることが珍しかったみたいです。そして、そこには“ライブ感”がある。寿司はカウンター席の目の前で魚を切って握って出すという調理方法がアメリカ人にとって新鮮とのことで、それが日本食のおもしろいところだと言われました。

—確かに言われてみるとその通りです。
車のアイデアを出すことを食文化に置き換えて考えました。カタカナの日本食をアメリカでやるというお題を設定し、ひとつの候補としてカレーをあげました。そして、そこにアメリカ人が思う日本食のイメージ、“ヘルシー”と“エンターテイメント性”を混ぜ込んでみるとどうなるか。野菜たっぷりで、鍋からご飯にかけるだけではなく、オープンキッチンで炒めてみたら…って思いつきました。

—それを実現させるためにアメリカで行動しましたか?
実は、アメリカにいる段階で会社を辞めてカレー屋をはじめようと思っていました。でも、日本の商品企画室に行くきっかけができたので、それを断念したら人生後悔すると思い、一度日本に戻ってやるべきことをやってからまたアメリカに来ると決意。日本で3年間、車の開発に携わり、そのモデルをデビューさせた年に会社を辞めました。

—目標を達成してから辞めた訳ですね。退職する際の周りの反応はいかがでしたか?
上司は、僕が辞めてカレー屋をやるということは信じていませんでした。フランス人の上司にも呼び出されて、辞める理由を正直に話して欲しいとも言われました。僕が惜しいというより、異常に感じたのでしょうね。惜しいと思っていたのは、うちの親父。親父も若くして脱サラをして不動産を立ち上げていて、僕がカレー屋をやると伝えたら呆れた顔をしていました。「俺は今でもサラリーマンを続けて出世をして、安定した生活を送ればよかったと夢でも見るし、実際にそう思っている。自分から今のサラリーマンの生活を捨てるなんて絶対に後悔する」と親父に宣言されました。
 
 

どんな失敗をしてもそれを乗り越えればいいと思っていました

—そこまで断言されて心が揺らぐことはありませんでしたか?
もちろんゼロだった訳ではありません。でも、サラリーマン時代に社長にはじめてメールを送った時から、賽は投げられたと思っています。自分の中では、それ以外の選択肢は考えられなかったし、どんな失敗をしてもそれを乗り越えればいいと思っていました。

—その人生の大きな岐路に立っても楽観的な部分がありますね。その後はどうされましたか?
当時設立して間もない飲食の会社でお世話になりました。その頃、その会社では僕のイメージに近いカレー屋を運営していたんです。僕が入社したのが38歳くらいで、社長は少し上の年齢。数年後には必ず辞めることになるけど、入社するからには全力で働くし、給料は二十歳前後のスタッフと一緒で構わないとも言いました。

—そこでカレーについて学んだということですね。
実は、そこで料理について学んだ訳ではなく、外食産業について学びました。飲食店としての原価率や利益率を知ったりと大きな枠組みを勉強しました。

—では、どこで料理を勉強したんですか?
独学です。またどこかで修行することはせず、味を試行錯誤しながらお店をオープンさせました。
 
 

マーケットに小さな穴を開けることができるのではないか

—出店場所はアメリカではなく日本を選びましたが、その理由は?
はじめからアメリカに出店するつもりでしたが、日本に戻ってきて、車の仕事を3年と飲食の修行を2年、計5年間日本にいるとアメリカが遠く感じてしまい、まずは日本で出店することにしました。

—出店までの準備について教えてください。
まず、日本のカレー業界について徹底的に調査をしました。
その結果分かったことは、当時のカレーの外食産業では、国内店舗数1位が1000店以上あり、2位が70店ほどという事実。他の業界にしても、ここまで1位と2位に大きな差があるのは珍しいです。
カレー業界について他にもリサーチしてみると、分かったのがチェーン店のほとんどが同じ特徴ということ。客層がほとんど男性で、シンプルなカレーということが共通しています。カレーに揚げ物主体のトッピングを乗せるのがベースでジャンクフードという印象があること。ビーフやポーク、チキンと肉の種類による違いはありますが、野菜ベースのカレーは、野菜カレーとひとくくりにされていました。トッピングもカツ、エビフライ、唐揚げと揚げ物ばかり。カレーの味も、何日か寝かせてコクがあることを押し出していて、コッテリでヘビーなものが多かった。
確かにシンプルでジャンクな食べ物は男性好みで、僕も嫌いじゃないです。でも、女性はそれが好きじゃない人が多いから、女性客が少ないということに気づきました。


—確かにカレー屋は男性が多いイメージです。
それじゃあ、逆にしてみたらどうなるのか。シンプルをひっくり返し、ひとつひとつ丁寧に調理して、そこに“ライブ感”を加えると華やかになる。ジャンクをひっくり返して、揚げ物を使わず野菜を主役にすれば“ヘルシー”になる。国内にカレー屋のチェーンはたくさんあるけど、逆を突けば新しい市場が出来上がり、マーケットに小さな穴を開けることができるのではないかな、と思いました。それは僕がアメリカで思い描いていた新世代の日本食としてのカレー屋と一致するんですよ。

—アメリカでヒットする以前に、日本国内でも需要があるということですね。
そして物件は、感度の高い人が多い渋谷区に決めました。もうひとつ条件がありまして、国内店舗数1位のカレー屋の隣にオープンさせること。黒い服を目立たせたいなら、白い服の中に行けば目立つ。絶対に避けたかったのは、オシャレな飲食店の隣。埋もれちゃいますからね。
 
 

ベストに悩まずベターを探すことが鉄則

—開業に関する資金はどうされましたか?
それまでの貯金や退職金など、700万円ほど自己資本に当てて、プラス700万円ほど政府系の日本政策金融公庫から融資を受けました。そこは融資額の半額を自分で準備すれば無担保で借りることもできました。

—では、準備期間は何ヶ月掛かりましたか?
4ヶ月です。その中で、物件を探して什器を選定し、レシピを作り食材の仕入先業者を探して、野菜ソムリエを勉強してみたり、スタッフのオペレーションを考えてみたり。やることはたくさんありました。

—その期間で大事にしていたことはありましたか?
まず先にオープン日を決めました。期限を決めないといろいろと悩んでしまい、オープンがどんどん先送りになってしまうんです。その期間は無収入なので、先送りになればなるほど生活が苦しくなり、その場しのぎの再就職をしてしまう人がいます。だから絶対に短期決戦をするべき。期日を決めて、ベストに悩まずベターを探すことが鉄則だと思うんですよ。一番良くないのは、無収入の準備期間中にアルバイトをすること。それをはじめちゃうと、退路を絶って集中できなくなります。覚悟が決まらないし、その生活で安定しちゃって目標が薄れてきちゃいます。

—やっぱり相当な覚悟は必要なんですね。
生活が苦しくなる状況で独立すべきではないと思います。それは無謀な独立。飲食だったら準備期間に3〜6ヶ月は必ず掛かります。その半年は無収入でも食べていけるくらいの財力がないと失敗すると思いますよ。それができないなら、まだ脱サラすべきタイミングではないです。

—開業資金だけ準備してもダメということですね。
飲食店って、オープンしても失敗することのほうが多いんですよ。僕の今があるのは偶然。最初からお店のコンセプトが評価された訳ではないし、僕に調理人としての才能があった訳でもない。ただの偶然が重なっただけ。ギターが世界一上手くても、世界一売れるとは限りません。逆にそこそこのテクニックでも売れるミュージシャンもいて。

—運が味方したとはいえ、しっかりとした市場調査があってこそだと思います。
僕の場合は、偶然が重なって考えていたことや準備が活きたけど、それは最終的な部分なので、最初は必ず運が必要です。
 
 

最初の2年間は売れずに本当に死ぬ思いをしました

—オープンしてみて、いかがでしたか?
脱サラを夢見ている若い子に釘を刺しておきますが、最初の2年間は売れずに本当に死ぬ思いをしました。仕事自体もハードでしたがなによりも心が辛かった。今思うとオープン当時は頭でっかちで、視点が狂っていましたよ。飲食ってローカルな仕事なんです。みなさんの地元においしい定食屋はきっとありますよね。でも隣町のおいしい定食屋をどれだけ知っているでしょうか? 食べに来るのは、ほとんどその街の人たちなんです。
僕はずっと自動車メーカーにいたから、見ている市場はどんなに小さくても日本という国単位。だから、ローカルに目を向けていなくて、お客様を一人の人間として見る視点が欠落していました。
ここまで話した中でもマーケットやコンセプトという言葉を使いましたが、そんな大きな枠ではなくて、毎週火曜に来る〇〇さんや土曜の夜に来る〇〇さん夫婦が大事なんです。

—飲食の経験が浅かったこともあってローカルの大切さに気づけなかったということですね。
そうですね。でも逆のことも言えて、ほぼ未経験だったからこそこのお店ができたとも思っています。本格的にカレーの修行を積んだら、ビーフカレーやポークカレー、チキンカレーを作って、“ヘルシー”や“エンターテイメント性”のことを忘れてしまっていたと思いますよ。ある意味、素人に近かったからこのお店ができたのだと思います。荒波の中で仕事をしていく厳しさを理解していたつもりでしたが、潜在的なリスクが顕在化してきた時に、その恐ろしさを体感してはじめて理解できるんです。僕はオープンから2年間で気持ちが折れました。

—最初からうまくいった訳ではないんですね。
でもありがたいことに、偶然この場所にはうちのお店をおもしろいと言ってくれるお客様がいたんです。自分たちが行かないとお店が潰れちゃうから、無理矢理毎日来てくれて、1日3回食べに来てくれる人もいました。
 
 

お客様を満足させるために僕自身が覚醒した

—まさにローカルですね。
そういうお客様がいることで、荒れていた心の汚れが落ちたような気持ちになりました。もちろんアメリカ進出の夢は捨てたつもりはありませんでしたが、マーケットとかコンセプトとか以前に毎日来てくれる常連さんにマズいものを出せないという気持ちになりましたし、疲れた表情も見せられない。カレーの値段以上のものを提供したいって飲食店としての根本的な考えがやっと芽生えてきました。
マニュアルにはないサービスがどれだけできるかって大事だと思ったし、お客様を満足させるために僕自身が覚醒したと思います。

—大きな市場ではなく、個々のお客さんを見られるようになったと。
完全に目が覚めました。ある日、取引している八百屋さんから十数種類の野菜をサンプルでいただきました。それをゴロゴロと大きく刻んでスキレットに乗らないくらいたくさん入れたカレーを常連さんに試作品として食べてもらいました。そしたら、おいしいと喜んでくれて。印象に残っているのが「こんなに楽しいカレーは食べたことない」って言ってくださいました。スプーンですくう度にトマトのカレーになったりナスのカレーになったり、全部違うカレーに感じたそうです。そして、「これこそ、あなたがやりたかった野菜のカレーの究極なんじゃない?」と言われ、メニューにすることを薦めてくれました。
 
 

簡単には脱サラを勧めることはできません

—お客さんが喜んでくれたメニューが、看板の〈1日分の野菜カレー〉になったんですね。
まさにその通りです。一流のシェフに評価されるより、本当に毎日来てくれたお客様がおいしいって言ってくれたほうが嬉しいです。だからこのメニューには自信があったし、思い入れも強いです。それで野菜の量を測ってみたら、偶然にも厚生労働省が推奨している1日にとるべき野菜の量だったので、この名前になりました。

—その頃にはお客さんを一人一人大事にする考えがあったし、看板メニューも完成している訳ですが、軌道に乗った1番の理由はなんだと考えますか?
最初の厳しい2年間も今思えば必要だったし、大きな会社で企画の勉強したことが役に立っているかもしれないですし。いろんな要素が絡み合っているので、軌道に乗った明確なきっかけはわからないです。
ひとつ言えるのは、心が折れながらも2年間を乗り切れただけで、頭がいい人か体力がない人はその2年間のうちに辞めていたと思います。だから、簡単には脱サラを勧めることはできません。僕の反省からすると、さっき開業資金と準備期間中の生活費が必要と言いましたが、軌道に乗るまでの資金も必要ですね。このお店が軌道に乗ったのは、ボチボチ人気のストリートミュージシャンの前を有名プロデューサーがたまたま通ってメジャーデビューしたくらい偶然なんですよ。

—ぶっちゃけ、前職より収入は増えましたか?
飲食業界って、ひと月に一坪あたり30万円の売上があると大繁盛店で、このお店がそうなりました。でも、原価や人件費、店舗家賃を払うとそこまで大きな利益はでません。一国一城の主である社長が、アルバイトと変わらない給料になるので、飲食店の場合は店舗を増やさないと給料が増えないんですよ。だからみんなは、また融資を受けて店舗数を増やしますが、その場所でやっているからヒットしている訳で、隣町で営業しても上手くいくという保証はないです。実際、うちもお店を増やしたけど何店舗も閉店していますしね。ですので、お店を出店するのは怖いんですよ。
 
 

僕は脱サラして良かったと思います

—独立することにどんな魅力を感じていらっしゃいますか?
独立するフリーランスの人って変態だと思うんですよ(笑)。なんの保証もないのに平気なんだから(笑)。
でも、実はそれが平気じゃない人が一念発起して脱サラしちゃったりするのが怖いですね。僕自身も、はっきり言って変態だと思っています。脱サラは怖いって他の人に言いますけど、僕は脱サラするときは一切怖くなかった。楽天家であり、自分の能力と運に対して絶対的な自信を持った自信家なので必ず乗り切ると思っていましたからね。最初の2年で心が折れても、他の人からみたら平然としていたみたいです。そういう変態の人にとって、個人事業主は最高に楽しい環境だし、生きがいになります。
僕の場合、今でも新しく出店する時は、怖さもありますがヒリヒリするほど楽しみな気持ちのほうが大きいです。

—すべての人に脱サラは向かないんですね。
でも、言っていることが逆になるかもしれないですが、実際にやってみないと分からない部分があります。だから僕が言いたいのは、少なくともお金は必要だということ。持っているお金の中での生活に我慢できて、失敗しても大丈夫ならやってみたほうがいいと思います。僕は脱サラして良かったと思います。
 
 

近い将来かなりの高確率でアメリカに出店できると思います

—会社としての具体的な目標はありますか?
アメリカに出店します。実は去年の3月で独立してから10年目で、50歳を迎えた年です。僕は自分に対して客観視できていると思います。脱サラしてから10年経ち、自分の優れている部分と向いていない事を見極めることができました。自身を分析してみると、火種を作ることはできますが、炎上させることは向いていません。
つまり、どこかからか燃料と薪を持ってこないといけないんですよ。不安定ながらも30店舗くらいのお店を自分で作る能力がありましたが、それをさらに大きくすることには限界を感じました。店舗数を増やす延長にある、アメリカ進出は簡単ではないと痛感したんですよ。

—では、どのようにアメリカ進出を計画していますか?
会社の次の10年をどのように進むべきか考え始めた頃、カツ丼のチェーン店、かつやを展開しているアークランドサービスホールディングス株式会社さんとM&Aについて協議をするチャンスがありました。その協議の中で、うちの「野菜を食べるカレーcamp」に関する将来像や、アメリカ進出の話で意気投合した結果、僕が自社株の66%を売却してグループ傘下に加入することを決断。商品開発や仕入れのルート、資金面などをグループ内でサポートしてもらえることになりました。また僕の強運なんですが、アークランドサービスグループの強いバックアップ体制の下で、近い将来かなりの高確率でアメリカに出店できるイメージが見えてきたと思います。

—20年越しの夢が叶いそうですね!
僕は執念深いので。良いことも悪いことも(笑)。
 
 

自分自身をしっかりと見極めることが大事

—では最後に、重複する内容でも構いませんが、脱サラを考えている人にアドバイスをいただけますか?
ひとつは、何度も言ったようにお金を準備すること。
二つめに独立してうまくいく人って組織の中でも光るなにかを持っている人なんじゃないかな、と思います。組織の中で全然ダメで努力もせず、愚痴だけを言っている人はひとりでやってもうまくいかないと思うんですよ。その意味でも残酷かもしれないけど、自分自身をしっかりと見極めることが大事かと。

—会社から逃げるために独立するのではなく、次なるステップのために独立じゃないとうまくいかないということですか?
逃げるために独立すると、本当に人生に逃げ道がなくなってしまうので。今の会社で満足する結果を残して卒業するくらいのほうがいいかもしれないですね。
でも、いろいろな考え方があるので一概には言えません。会社に不満があるなら辞めればいいとも思います。でも、それは脱サラじゃなくて転職に向いている人かもしれないです。サラリーマンって世界で最高の仕事ということは言っておきたいです。なぜかというと、絶対に自分は赤字にならない。個人事業主になると赤字ならお給料がゼロですから。どんなに労働環境が悪いブラック企業でもお給料は払ってもらえます。それは思い知ったほうがいいです。独立したからってお花畑の世界が待っている訳ではありません。サラリーマンより地獄が待っているかもしれないし(笑)。楽しいけど、楽なことはないってことを知っておいてもらいたいです。
 
 
Epilogue
誰もが羨むようなサラリーマン人生から一転して脱サラを決意した佐藤さん。いざ独立してみると、楽天家の佐藤さんでさえ心が折れてしまう現実が待ち構えていたことから、やっぱり脱サラは簡単ではないということがよく分かった。店内での取材中、何回も目にしたのは女性客がひとりで来店している姿。それは最初に佐藤さんが考えた通り、カレーの外食産業に風穴を開けた証拠だ。独立を考えていても、まずはしっかりとした市場調査や資金の準備をおこなうべき。個人事業主という後ろ盾がない環境で働くことが自分の肌に合っているのか、改めてじっくりと考えてみよう。

<CREDIT>

■佐藤 卓(さとうたかし)
埼玉県出身、50歳。株式会社バックパッカーズ代表。ブルースの愛称で親しまれている。「野菜を食べるカレー camp」を2007年に開業し、現在は国内21店舗、アジア2店舗を展開。昨年、スペアリブやベーコンを使った豚汁をメインにした「野菜を食べるごちそうとん汁」を10年の構想を経て、代々木にオープン

■野菜を食べるカレー camp 代々木本店
住:東京都渋谷区千駄ヶ谷4-29-11-B1
☎:03-5411-0070
HP:curry.camp
営:11:30〜22:30(ラストオーダー)
定休日:日曜

【クレジット】
PHOTO:TAKAHIRO KIKUCHI
TEXT:SHOGO KOMATSU